浜松まつり ・凧合戦の歴史

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以下は「浜松まつり 会館配布パンフレット」「静岡新聞記事」「中日新聞記事」などを参考にしてまとめたものです。

凧揚げの起こり

 浜松の凧揚げの起こりは古い。
 これまでの定説は、江戸時代の元文4年(1739年)酒井真邑(さかいしんゆう)の著「浜松城記」に基づくもので、「永禄年間(およそ435年前・1558〜1569年)、飯尾豊前守(ぶぜんのかみ)殿居城、この子孫曳馬野(ひくまの)に住する也。引馬(ひくま)城主、飯尾豊前守殿の長子義廣(よしひろ)の誕生を祝して、入野村(現・浜松市入野町)の住人佐橋甚五郎(さはしじんごろう)なる者、凧の大なるものに、御名義廣と記し城中において揚げ奉る」と記されている。
 しかし最近、「浜松城記」には史実と違う部分が多く、静岡大学教育学部の小和田哲男教授や郷土史家の間からは偽書との指摘が上がっており、寛政元年(およそ210年前・1789年)に長上郡有玉村(現・浜松市有玉南町)の大庄屋・高林方朗家で節句用の凧を購入したのが最初との説も出されている。

 このように、浜松の凧揚げの起源には諸説あるが、長男が生まれると町内の若者達が端午の節句に祝い凧を贈って揚げるという「初凧」の風習は、日本の遊戯が盛んになってきた江戸時代中期以後に広まっていったとされる。初家が凧を上げてくれる町内の若者に酒を振る舞う習わしも、このころから始まったという。

凧絵

 凧絵については江戸時代は菊水、雲に鶴などであったが、明治から大正にかけては各町名を現す絵、字に変わってきた。昔は凧揚げ場で一ヶ町が揚げていると、他町からきて挑戦したもので、しだいに組織化され、旗をおしたて、そろいの法被(はっぴ)、手ぬぐいで凧合戦競技を行うようになった。

お囃子と御殿屋台

 昔は凧合戦が終わると荷車に凧や道具を積んで帰ったが、明治の末、当時の名優森三之助が一座を連れ、凧揚げから帰る若衆を鐘や笛、太鼓の鳴り物入りで迎えた。これが浜松のお囃子(はやし)のはじまりといわれる。
 屋台の元は凧や道具を積んで帰る荷車・通称「大八車」である。たる木柱を立て凧糸を張り、提灯や木花で飾って、糸わく、凧を立てかけ大八車に引き紐を輪に付け、子供達が輪の中に入って、ワッショイと掛け声勇ましく凧会場から引いて帰ったのが浜松屋台の始まりで、大正4年には浜松独特の底抜け屋台が登場、そして大正11〜12年頃から、お囃子達が乗れる屋台になり、昭和4年に初の御殿屋台(野口町・八幡町)が完成、時代が進むにつれ豪華な屋台となっていった。

近代の浜松まつり

 戦争のために昭和12〜21年の長期にわたり凧揚げは中止された。戦後、昭和22年に再開された凧揚げ祭りは昭和25年には「浜松まつり 」と改称、市民あげての祭りとなった。42年には手狭になった和地山公園から現在の中田島へと凧揚げ会場が移った。
 参加町は昭和40年代までは、67町だったが、50年代から年々増加。61年に100町を超え、平成10年には165町となった。

(参考:浜松まつり 会館配布パンフレット・静岡新聞記事ほか)


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